北朝鮮帰国事業裁判弁護団

北朝鮮帰国事業について、北朝鮮政府の責任を問う裁判の弁護団です。

脱北者の声:高政美(コ・ジョンミ)さん

 今回の提訴に加わった、脱北者の皆さんの声を紹介していきたいと思います。

 最初は高政美(コ・ジョンミ)さんです。高さんは、1960年に大阪市で在日コリアン2世として生まれ、3歳で実母、養父、兄弟らと帰国事業に加わり北朝鮮に帰国しました。2000年に2人の子どもと中国に逃れたものの、2003年1月に中国政府により北朝鮮に送還され、激しい拷問を受けました。2003年11月に再び中国側に渡ることに成功し、2005年から子どもらと共に日本に住んでいます。

 

 

陳述書

2018年8月9日 高政美

私の経歴

 私は父・高キョンスンと母・金玉先の次女として1960年9月23日、大阪市生野区で生まれた在日朝鮮人二世です。父母は共に韓国済州島出身であり1957年結婚し、子供を3人儲けました。父は1962年10月21日大阪で死亡しています。

私が北朝鮮に渡った経緯と北朝鮮到着後の様子

北朝鮮に渡るまで

 北朝鮮に帰国した当時、私は3歳でした。ですから当時をめぐる状況については、私が長じてから母や養父に聞いた話を基にお伝えします。

 北朝鮮への帰国を決定したのは私の法定代理人である母です。母は在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総聯)構成員から「3人の子供を連れて、どうして生活していけるのか。北朝鮮へ行けば心配なく生活できるし、日本で受けるような差別もない。北朝鮮へ帰る方が良い」と勧められました。また「3年たてば、また日本に戻ることもできるのに、誰一人日本に戻ってきてはいないのですよ」「北朝鮮へ行けば心配なく生活できる」と説得され、その説明を信じて帰国を決断しました。

  帰国のため新潟に赴いた私たちは、そこで養父となる金コングォンを紹介され、新潟で半年ほど暮らしました。養父は韓国済州島の出身で、戦前に大阪へ渡ってきました。青年の頃、沼で溺れていた日本人の子供を助けた縁で、その家族の援助を受けて日本の大学の法学部を卒業しています。養父は朝鮮総聯構成員として帰国事業の仕事を担当しており、その仕事に区切りをつけて私たちと共に北朝鮮に帰国しました。

 私は1963年10月18日の第111次船で北朝鮮に帰国しました。ともに帰国したのは、養父、母、金ビョンシク(兄、養父の連れ子)、金オクスン(姉、養父の連れ子)、金政愛(ジョンエ、実姉)、金太虎(テホ、実弟)の6人です。

北朝鮮到着と兄の連行

 帰国船は清津に到着しました。母や養父によると、この時、金ビョンシク(以下「兄」とします)は清津の施設や風景と出迎えの人々の様子に落胆し「船から降りない、日本に帰してくれ」と言っていました。その後私たちは帰国船から降ろされ、清津の帰国者招待所で過ごしました。その間も兄は日本への帰国を要求していたため、どこかへ連行されていきました。帰国当時兄は10代半ばであり、祖国へ夢や希望を抱いて帰国したであろうことは想像に難くありません。しかしそれらが一瞬にして崩されたのです。その絶望感たるや、いかほどのものだったでしょうか。

 残された私たちは新義州に配置が決定し移動させられました。希望に満ちた、祖国と朝鮮総聯へのゆるぎない信頼に基づく祖国への帰国は、到着した時から家族の離別という不幸に見舞われました。

北朝鮮での私の生活、そして脱北を決意した経緯

北朝鮮での生活

 帰国当初、私たちの生活は楽なものではありませんでした。養父と母は北朝鮮社会の制度に従い、毎日夜遅くまで仕事に出かけていました。母は主婦でしたが、北朝鮮では主婦といえども家事をするだけの生活は許されず、「女性同盟」という党組織の指示に従って各種の労働奉仕や役割を担わなければなりませんでした。

 通常、主婦は朝6時に「朝期作業」という早朝からの奉仕労働に動員されます。ほぼ毎日この作業があり、ときには朝4時に出かけなければならないこともありました。朝期作業は世帯当たり1人出る必要があって、たいていは母親が出ました。仕事は朝8時までつづき、仕事内容は道の普請、建設用の石集めなどでした。また金日成や金正日がその町に来るとなれば、彼らの車が通る道路に各家からバケツを持って行き、その道路に水をまいて雑巾がけまですることもありました。大変な重労働になることもあり、母は土や石を入れた土嚢を担いで倒れてしまい、腰を痛めて3ヶ月ほど動けなくなったこともありました。朝期作業が8時に終わると、次は9時から12時まで女性同盟の事務所で仕事をし、そして午後2時ごろから6時ごろまで各地の「生活総和」(労働者が自分の業務・生活について、相互または自己への批判を行なう行事)の指導に行っていました。

 母はこれらの作業に動員され、あまりにも忙しい毎日を過ごしていました。そのため私は母と十分な会話の時間が持てず、母子の温かい心のつながりを築けない時期がありました。幼い兄弟の面倒は、忙しい母に代わって一番上の姉・金オクスンが看ていました。養父や母が朝から晩まで働きに出て行き、姉や弟は学校や幼稚園に行ってしまい、小学校へ上がるまでの私は一人で留守番をすることが多かったのでした。母からは家から出てはいけないと言われており、私はいつも孤独を感じて過ごしていました。また、治安の悪い北朝鮮では泥棒が多く、恐怖感も覚えていました。それが、私の幼い日の記憶です。

変わり果てた兄との再会と兄の死

 1968年5月頃、私が7歳のときでした。私は養父、母、義理の姉とともに、帰国直後に引き離された兄に会いに行きました。兄は精神病患者が入院する場所である「第49号病院」に収容されていました。「帰国したい」と言っただけの兄は、「精神病患者」として社会から隔離されていたのでした。その病院は山奥にある小さな建物で白い塀に囲まれていました。しかし、そこは病院とは名ばかりの収容所でした。塀の中に平屋の建物があり、建物の中は鉄格子で仕切られていました。床は汚物だらけで、非常に劣悪な環境でした。収容されていた人たちはボロボロの服を身にまとい、髪の毛は伸び放題でした。頭が垂れ下がり、目はうつろで表情もなく、それはまるで人間か動物かわからないような様子でした。その中に、5年ぶりに再会した兄がいました。あまりの変わりようから父でさえも判らないほどでした。健康でたくましかった兄が、まともに立ってもいられず倒れそうな様子で、あまりにも惨めな姿に変わってしまっていました。7歳だった私にとってその光景はあまりにも強烈で、終生忘れることが出来ません。私たちは変わり果てた兄を正視できず早々にその場を後にしたほどでした。

 その後、1971年頃、兄の死亡が明らかになりました。養父がいろいろと手を尽くして兄の行方を調べていたところ、兄の死亡通知が下りて来たのです。兄のいた第49号病院が解体されてなくなり、兄を含む収容者はその後、「政治犯収容所」へ送られていたというのです。兄はそこで死亡した、とされていました。兄は「日本に帰る」と言っただけで政治犯収容所へ入れられ、惨めな最期を遂げたのです。養父と母はせめて兄の遺体を取り戻して葬ってあげようと思いましたが、どこの政治犯収容所かもわからず、結局は無理でした。遺体すら取り戻せなかった父は「このことは私たちの心の痛みとして覚えておかなければならない」と言いました。

帰国者に対する差別

 私は帰国して数年のち、日本の小・中学校にあたる人民学校に通うようになりました。学校で私は「チョッパリ」(日本人の蔑称)、「パンチョッパリ」(半分日本人)と云われ大変ないじめを受けました。例えば、午前中の授業を終えて午後の作業に出るために、教服(学校の制服)から作業用の私服に着替えるときのことです。私には日本から持っていった衣類しかなく、それを着ることになるのですが、日本から持っていった衣類は北朝鮮の物に比べて質もデザインも良く、かっこいいものでした。それが他の生徒に妬まれることになり、「チョッパリの服だ」「思想が悪い」などと言われ、服を破られたりしました。服を脱がされ、破られ、パンツだけにされたこともありました。そんな時、私は隠れて暗くなるのを待ってから帰宅するしかありませんでした。日本での差別から逃れられるとの希望を抱かされて北朝鮮に渡った私たち帰国者は、同胞であるはずの北朝鮮人から差別を受けることになったのです。

 1970年代に入ると日本の親族からの仕送りが届くようになり、私たち家族の生活は安定するようになりました。一家の生活は日本からの仕送りと、持ち帰った宝石やその他の品物を売ることで現金を手に入れ、あるいは物々交換をして必要な品物を手に入れることで成り立っていました。

養父の失踪

 そんなある日のことです。1976年3月はじめ、養父が突然行方不明となる事件が起こりました。そして何の音沙汰もないまま1ヶ月が過ぎました。その間、私たち家族は養父が行きそうなところを全て探してみましたが、見つけることはできませんでした。母は養父の職場に何度も行き、行方を訊ねましたが、「自分達にも何がどうなったのか全然分らない。家に帰って待て」と言われるだけでした。家の中はまるで葬式のように沈みこみ、私はご飯も喉を通りませんでした。何が起きたのか、養父はどこにいるのか、そして私たち家族の将来はどうなるのかと不安で眠れない日々が続きました。何の情報も入らないまま2ヶ月、3ヶ月と歳月は過ぎていき、私たちはほとんど放心状態に陥ってしまいました。

 1976年7月2日、父の勤め先である工場の幹部が家に訪ねて来ました。「絶対に私から聞いたと言わないでくれ。そうする自信はあるか。バレたら自分の命もないのだ」と念を押してから、「あなたのお父さんは煉瓦工場に送られた」と言いました。私が「煉瓦工場とは何のことか。なぜ家から通えないのか、なぜ連絡が取れないのか」と畳み掛けると、その人は「帰国者たちに聞いてみたら分かる話だ」と、妙な言葉を残して帰って行きました。この時、私は何時だったか同じクラスの女の子が、「自分の親戚が煉瓦工場に送られた。再び会える日は永遠に来ない」と涙ながらに言っていたことを思い出しました。私はその時、その女の子がなぜ涙ぐんでこの話をしたのかまったく理解できず、工場へ行っただけの人に何故会えないのか、おかしなことを言う子もいるなと思いました。ところが母にその話をしたところ、母は急いで帰国者の友達の家を訪ねていきました。

 しばらくして帰ってきた母の顔色は真っ青で、「直ちに荷造りをしなさい。誰が来て何を聞いても絶対に今のことを話すんじゃない」と私に言い、「姉と弟、妹たちを探して連れて来なさい」と告げました。その時の母は、何をどうすれば良いのかわからず、興奮した様子で家の中を行ったり来たりしていました。私は事態が理解できず、とりあえず戸外に出たものの頭が動かず、しばらくぼんやりと立っていました。まずは兄弟たちを探して来いと言われたのを思い出し、探そうとするもののどこにいるのか検討がつかず、しかたなく一旦家に戻ってみると、そこは正に修羅場でした。母は家にある貴金属などを荷造りしようとしていたようなのですが、手に取ったものを置いてはまた取ったりと、混乱の極みでありました。

 混乱状態は兄弟が戻ってくるまで続き、要領を得ない母と私の説明から事態を察した姉がその場を収拾し、母はようやく私たちが置かれた状況について語り始めました。母は、「今日聞いてきました。家族の誰かが煉瓦工場に送られて5ヶ月の間に戻ってこられない場合、家族全員も連れて行かれるんですって。いつ連行されるのか分らないみたい。そして、金目のものは全部奪って、少しのものだけトラックに詰めて、永遠に出られない政治犯収容所に送られるんですって。そこに入ったら最後。生きて帰る人はいないと言うのよ。私たち、どうしたらいいかしら。これからはどんなことがあっても、どこにも、学校にも行かないで良いから、家に必ずいるのよ」と言いました。私は「学校に行かなくて良い」などと言う母の言葉を初めて聞きました。いつも「学校、学校」「勉強、勉強」と口にしていた母のこのような言葉を私は理解できず、ただただ震えていました。そんな私に姉が別室に行くように合図をしました。別室に行った私と弟に対し、姉は「あんたたち良く聞くのよ。このごろ帰国者たちに何かが起きているの。ある家ではお母さんだけ残して全部どこかに連れて行かれたし、また、ある家は家族全員が消えてしまったらしいのよ。財産も、全部持っていかれるそうよ。我が家もお父さんが帰ってこないから何かが起こったと思うの。お母さんも誰かに聞いたみたいね。私たちも準備しておくのよ。もしトラックが来ても絶対泣かないで荷物をまとめるのよ。分かった?」と言いました。私は目の前が真っ暗になり、話す気力もなくなってしまいました。この日、私たちはまんじりともしないで夜を明かしました。

 同年8月31日夜11時30分、だれかがドアをたたき「父を連れてきた」と言いました。母がドアを開けると背の高い痩せた男の人が風呂敷包みを持って立っており、その後ろに首をがっくりと垂らした人が見えました。手前にいた男が「この間、ご苦労様でした。お家でゆっくりくつろいで下さい。これは生活用品です」と言いました。男はこういいながら、体が良くなったらすぐに報告するようにと念を押して帰って行きました。

 残された人は養父でした。白髪の老人になってしまい、痩せこけた養父の姿には、昔の力強さは跡形もなく、あまりにも凄惨な姿でした。身に着けているものも肌着のみ、しかもしらみと蚤だらけで、家に入る前に着替えなければなりませんでした。再会の喜びに浸る間もなく、やっと解放され家に帰れた安心感からか養父は倒れてしまいました。私たちは養父がこのまま死んでしまうのではないかとひどく怯えました。

 養父の体調が回復してきた頃、私は他に誰もいないのを見はからい、養父に何があったのか訊ねました。養父は私に「誰にもしゃべらないこと」と約束させ、話してくれました。「帰国事業は北朝鮮の政治的・経済的な目的のためだけに行なわれたものだ。帰国者の運命など、最初から眼中になかった。そして、今となっては自分たちの偽善的な行為の目撃者であり体験者でもある帰国者の存在が邪魔になったのだ。だから、大々的な帰国者狩りに乗り出したと言うわけだ」「自分たちの野心のためなら、人の命など虫けらほどにも思わないのが北の為政者たちだ。今度、わしは全面否定して奇跡的に釈放されたけれど、多くの人がひどい拷問に耐えられなくて、やってもいないことをやったと認めてしまった。この半年の間、わしは、いままで想像したこともない、一生忘れられない体験をした。帰国者たちは、北朝鮮の為政者たちの釣の餌に過ぎなかった」と養父は話しました。続けて「日本にいる子供たちはわしより賢明だった。これからも総連の誘いに乗らず、自分なりに生きていくことを望むだけだ。わしはもう日本の子供たちに何も要求しないことにした。お前たちも理解してくれるだろうと思っている」と言いました。養父が拘束された理由は、朝鮮労働党の入党を拒否したことでした。入党を拒んだことで「スパイではないか」という疑いを掛けられ、拷問を受けたのです。養父は帰国事業を通して「労働党に騙された」という思いを抱いていたために入党を拒否したと思われます。だから養父は私たちの入党にも反対していました。

 その後、養父は1977年まで家で療養していました。体調がどうにか回復したとき、仕事をするか引退して家にいるかの選択を迫られた養父は、元の製紙機械工場に戻ることにしました。そして1980年に引退するまで、67歳まで働きました。その後は羊を飼い、その毛や肉を売ることで生活しました。養父は一人でいるとき、朝鮮総聯に騙されて大勢の人を北朝鮮に帰国させてしまったことを自分の罪として羊に語っているようなことがありました。「北朝鮮と総連に騙されていたことを見破れず、自分も誤った宣伝をしてしまった」と後悔の念に苦しみました。養父はそのことばかりを考え続けて晩年を過ごしていました。

生きるために:「支援」と「コネ」

 北朝鮮の人々から差別やいじめを受け、また兄や養父が悲惨な目に遭ったものの、暮らし向き(生活水準)としては、私たち一家は帰国者の中では恵まれたほうでありました。それは第一には、日本にいる親族が北朝鮮に「国家的支援」をしていたためです。国家的支援とは、北朝鮮当局の人間からの要請に応じて、北朝鮮では手に入らない高価で貴重な物品を日本から送ったり、更には多額のお金を寄付したりすることです。第二の理由としては、私たちには北朝鮮にいる親族にも党幹部などが多くいたので、何かと便宜を図ってもらえることがあったからです。つまり、党や権力に通じるコネがあるかどうか、それが北朝鮮社会で生きていくうえでの大事な要件でした。幸いに私たちにはコネがあったものの、コネがない帰国者たちはさらに酷い状況に置かれているのです。

 私は1976年に新義州第1師範大学に進学し、1980年に大学を卒業しました。1980年から1982年まで新義州第2師範大学体育学部球技講座で、また1985年から1996年まで平安北道新義州市体育大学芸術体操講座(現在の平安北道体育団)で講師を務めました。また1980年に私は平安北道新義州市医学大学病院医師であった李ヨンボクと結婚し、1982年には長女(以下「娘」とする)を、1984年には長男(以下「息子」とする)を儲けました。夫の李ヨンボクは東京の大学に通っていた1978年、24歳のときに父母と共に帰国した在日朝鮮人です。夫は帰国後新義州医科大学に編入したものの、朝鮮語ができずに苦労していました。また北朝鮮では男性は、軍隊経験があるか、もしくは朝鮮労働党員であるかが社会から認められる大事な要件でした。24歳で帰国した夫は軍隊へ行く機会を失っていたため、せめて労働党員になろうとしました。しかし入党するには何らかの成果がなければならないということで、夫は患者に自分の血液を多量に献血しました。そのために病気になり、1988年12月29日に死亡しました。

 帰国者ゆえの受難を経験しながらも、生活水準としては恵まれたほうであり、優しい夫との結婚生活も送れました。また、3歳で帰国した私には日本の記憶はほとんどありません。北朝鮮の社会しか知らず、北朝鮮の政治・社会に染まり、いつかは金正日がアメリカを打ち倒して世界最強国になるという期待まで抱くようになっていました。

飢餓

 そんな私の考えが変化し始めたのは、1995年5月の出来事がきっかけでした。当時、私は新義州市体育大学の芸術体操講座で講師をしており、平壌での行事や競技に参加したりもしていました。

 1995年5月、私が選手選抜のために故郷の新義州に戻っていたときのことです。大学からの緊急連絡を受け、飢え死にした人たちの死体の処理を35日間にわたって行なうことになったのです。北朝鮮当局は事実が外に漏れないように厳格な統制を布き、動員された人たちは党と保衛部・安全部の幹部たちの前で「この作業に動員されたことについては絶対に秘密を守ることを誓います」という内容の誓約書に署名・拇印をさせられました。作業は核心学生(出身成分=身分の良い階層に属する学生)と、体力の強い学生を選んで4班に分けて行なわれました。昼のうちにあちこちの死体を駅前旅館のある部屋に運んでおき、夜になるとその死体を山林(教育部管理下の教習林)に埋めました。死体には身元を証明できるものが何一つなかったため、初めはどこの誰かも分かりませんでした。のちに「餓死者はこの地の人々ではなく、飢餓がより酷かった北方の人たちだ」ということが住民調査によって判明しました。

 同年6月に入り死体は少しずつ減ってきましたが、それは北方の人たちが「中部地方に行けば餓死は免れるだろう」という幻想から抜け出し、北方の地に留まったからに過ぎませんでした。そのため、これ以後、北方での深刻な飢餓現象が始まりました。

 この体験を通じて私は、平壌と地方、そして人と人との格差について考えるようになりました。なぜ北方の人々は平安北道にまで来て飢え死にしなければならなかったのか。「何かが間違っている」そんな思いを私は抱いたのです。しかしこの時点では、脱北をしようとまでは思いませんでした。

政治犯と「出身成分」

 その後、私に脱北を決意させる直接の事件が起きました。私は日本からの援助がなくて困窮している帰国者のある男性に同情してお金を貸していました。ところが1996年、その男性が属する平壌の会社が一隻の船を使って行っていた金正日への上納のための「外貨稼ぎ」で政治的問題を起こし、その船に関係していた人たちの家族まで含めて処罰されることになったのです。その中にお金を貸した男性も含まれていたため、北朝鮮当局は、お金を貸していただけの私まで連座しているものとして責任を負わせました。私は私がどんな罪を犯したというのか、あらゆる方法を使って執拗に説明を求め続けましたが、結局まともな説明は何ら得られないまま、罪状も告げられず、大学講師の職を解かれました。そして、私と2人の子供までも、政治的な犯罪に関わったとして農村に追放しようとしたのです。この時初めて私は金正日政権に対して反発と嫌悪の感情を抱きました。単なる同情心から金銭を貸したことが罪に問われ、何のかかわりのない子供たちまでが巻き込まれたのです。当時、娘は大学入試の準備をしており、息子は国家的体操競技の候補選手に選抜され、選手団で訓練を始めたばかりでした。そのような穏やかな生活が、突然に破壊されてしまったのです。

 政治的な罪で農村に追放されるということは、北朝鮮社会では一家の出身成分が悪化し、敵対階層に分類されてしまうことになり、私のみならず、若い二人の子供たちの将来に何の希望もなくなるばかりか、親族にまで影響が及び、これまでの生活が破壊されるのです。北朝鮮で追放される農村は、日本の農村生活とは全く異なり、都市で生活してきた人には適応がとても困難な環境の中で、自給に近い、生きていくことも困難な原始生活を強いられるのです。私は、北朝鮮当局の余りにも理不尽で恣意的なやり方を、身をもって体験したのでした。

 私は決定を撤回してもらうべく、党の機関(道党=平安北道の党本部)や法的機関に抗議をしたものの、だらだらと問題を引き延ばされるばかりで決定が覆る見込みはありませんでした。そのため私は、党中央委員会の1号庁告訴室や、国家保衛司令部15処(民間部)にも行き、抗議しました。すると道党の幹部は、自分達の軽率な処理を指摘されるのが不安になったのか、道党執行委員会で私を危険分子に仕立て上げ、早期の追放を決定しました。その内容を道党の幹部として働いていた伯父を通じて知った私は唖然とし、「こんなところでは生きていけない、もううんざりだ」と考え、子供たちの将来を守るためにも脱北の決意を固めるに至りました。

1度目の脱北から、日本に入国するまでの経緯

1度目の脱北

 子供たちも私の脱北の決意に同意しました。ところが当時私がいた地方は、地理的にも警備の面でも咸鏡北道や両江道よりも国境を超えることが難しく、また私たちは監視を受けているために不用意に行動できない状態で、結局は脱北ルートを探すことができませんでした。仕方なく、「これ以上騒がないから問題が解決するまで新義州でそのまま住めるようにして欲しい」と道党の申訴部長に事情を訴えながら機会をうかがいました。そして1年半余りの準備の末、新義州から鴨緑江(アムノッカン)を越えて脱出することを計画しました。

 2000年11月29日、私と2人の子供は脱北計画を実行に移しました。鴨緑江に着いた私たちは葦原に潜み、12月1日の午後5時30分頃、凍った河を渡り、電気鉄条網の近くで監視している銃を担いだ軍人の目を避け、潮が引いた河を走って渡りました。こうして私たちは命がけで中国領にたどり着きました。そこは中国・丹東市と東溝(トンガン)の間にある「デタザ」というところでした。

 中国に渡った私は、何よりもまず韓国領事館に亡命しようと考えました。私はデタザで遭った中国朝鮮族の人にお金を払って瀋陽までの案内をお願いし、そして瀋陽でその人の知人の女性を訪ね、その助けで宿に身を落ち着けることができました。私はすぐに韓国領事館に亡命できるものと考えていましたが、瀋陽について分かったのは、それがほとんど不可能だということでした。脱北者の数が余りにも多く社会問題化したため、韓国領事館が簡単には受け入れないのです。私は領事館行きを断念しました。安全な第3国に行くまでには長い時間を要すると思った私は、まずは中国でとにかく親子3人が生き延びることを考えました。そんなとき、ある中国朝鮮族の人から「中国当局に捕まらないためには中国の公民証が必要である」と言われました。そこで、その人に多額のお金(1万元=十数万円)を支払って頼んだものの、渡されたのは偽物の公民証でした。脱北するために用意してきたお金はだんだんと減っていきました。生きていくためにはお金と安全が必要でした。そして、そのころ出会った別の中国朝鮮族によって、私は中国のどこかの農村に嫁として売られてゆくことになりました。人身売買のブローカーです。私につけられた値段は8000元でした。2人の子供は人質として製麺工場で働くことになりました。中国ではこのような人身売買が普通に行われています。しかし売られていく途中で、私は隙を見て逃げ出すことに成功しました。そこは山東省煙台市でした。私は朝鮮語を手がかりにさまよい、朝鮮語の書かれた食堂を探して大学へ行く道を尋ねました。大学なら韓国人の留学生がいるに違いないし、中国朝鮮族に騙された経験から、韓国人なら頼りになるだろうと考えたのです。大学にたどり着くと予想通り韓国からの留学生に会うことができました。彼らの世話で私は留学生食堂で働くことができ、お金をためました。そして約半年後、身代金の6000元をブローカーに支払い、瀋陽で人質になっていた2人の子供を呼び寄せることができました。

 山東省煙台で暮らしていた2002年5月19日、息子の足取りが突然、分からなくなりました。中国へ来て1年半、中国語の実力をつけた息子は自分の力を試して仕事を捜したいと家出したのです。それからの私は、もしや娘までも出て行ってしまうのではないかと不安な日々を過ごしていました。そんなある日のことです。一緒に働いている朝鮮族の人から「韓国や日本に行けるように力になってくれる韓国人を知っている」という話を聞きました。私はその人に会わせてくれるよう繰り返し頼み、一日千秋の思いで会える日を待ちました。

 2002年12月中旬、ついにその人、チェ・ヨンフン(崔永勲)氏に会うことができました。人道的な見地から脱北者を支援している韓国人の社会活動家です。チェ氏は脱北者たちを山東省・煙台から船で日本と韓国へ脱出させる計画を進めていて、私もその計画に合流して、安全な地へ逃れることを決意しました。

中国政府による北朝鮮への送還

 2003年1月、煙台でチェ氏たちと合流するために連絡を待っていた私は、中国の報道で「船に乗って日本や韓国に脱出しようとした脱北者が、中国公安に逮捕された」ということを知りました。計画が失敗したのです。チェ氏の計画では、煙台港から脱北者80余人を20トン級ボート2隻に分けて乗せ、韓国や日本に送るというものでしたが、中国公安に逮捕されて失敗に終わりました。このとき脱北者約50人が逮捕され、このうちの3人は北朝鮮に送還されたということです。チェ氏は中国公安に検挙され、その後、中国で3年間服役することになります。これがいわゆる「煙台事件」です。

 同年1月20日、中国外務省は「まだ捕まっていない脱北者も必ず逮捕し、法律に従って処理する」という声明を発表しました。そのとき私は、各国からの抗議もあることなので、中国側も本気で百人近い人たちを、想像を絶する酷い処罰が待っている北朝鮮に送り返すなどということはしないだろうと甘く考えていました。また中国外務省が発表した通りに捜索作戦を繰り広げたら、私自身が逮捕されるばかりでなく、娘や、いままで助けてくれた学生たちや朝鮮族の人たちにも被害が及ぶかもしれないと考えました。そこで私は1月21日正午、山東省煙台市開発区公安局に出頭しました。しかし私の期待は裏切られました。中国の公安員は私を殴り、縄で縛って留置場に監禁しました。私は公安員の話から北朝鮮へ送還されることを覚悟し、死をも意識しました。公安員は煙台事件の関係者の名簿や写真を私に見せ「知っているか」と尋ねましたが、私は知らないと言い通しました。

 2003年1月23日夜12時、私や他の送還者を乗せたバス3台が公安局を出発し、煙台港へ向かいました。「いよいよ北朝鮮に送還されるのか」と思った私は、死んでも北へは還されたくないとの思いから、抗議の自殺を決意しました。ところが簡単に死ねそうな道具は見当たりません。そこで私はバスの中で、靴に貼り付けておいたアクセサリーや指輪、そして留置場で手に入れた箸や針金、プラスチックのかけらを飲み込みました。異物を飲み込めば死ねると思ったのです。やがて私は苦痛を訴え始めましたが、バスはそのまま出発しました。さらに私は大連へと向かう船の中で、公安員の目の前でコートのボタンを取り出して飲み込みました。それに驚いた公安員は私が他にも何か持っているのではないかとあわてて調べ始めました。公安員は私が入れ歯を飲み込むかもしれないからとペンチで無理やり抜き取り、その際に他の歯まで抜かれ血だらけとなりました。「病人が発生したため船を戻す」という船内放送を聴きながら、私は気を失いました。

 気がつくと、たくさんの人が私を取り囲んでいました。私の意識が戻ったことを知った公安員は、テープで私の体をベッドにくくり付けました。近づいてきた公安員がはさみを持っているのに気づいた私は、ありったけの力で右手のテープをちぎり、そのはさみを奪い取り、自らの左肩を刺しました。何としてでも抗議の自殺を遂げようと思ったのです。血は傷口から噴水のように噴出し、公安員の顔にまで飛び散りました。あわてた公安員が医者を呼び止血しようとしました。私は「どうせ殺されるんだから止血の必要はない。今すぐあんたたちの幹部を連れて来い」と叫んだところまでは覚えています。出血のためか再び意識を失った私でしたが、体全体が揺れるような、そして何かに刺されるような衝撃を受けて目覚めた時、私は中国・丹東市と北朝鮮の新義州とを結ぶ橋の上にいました。おぼろげな意識の中で新義州の税関が見えました。その後、夫が死亡した病院でレントゲン検査をしたようですが、意識が朦朧としており良く覚えていません。

拘束と拷問

 新義州の保衛部に引き渡された私は1ヶ月ほど独房に入れられ、その後、十人ほどの雑居房に移されました。看守たちは留置場の廊下で毎日1時間ほど、送還されてきた脱北者たちを前にして次のように言い続けました。「アメリカの操縦の下、韓国と日本が結託して北朝鮮の人民を誘拐拉致し、船で運ぼうとしたのだ。奴らはその途中で全員を皆殺しにし、それを朝鮮人民軍の襲撃を受けて死んだと宣伝しようと策謀していたのだ。このような反共和国謀略作戦に巻き込まれて、お前たちは将軍様の威信と名誉を甚だしく毀損した。それにもかかわらず、将軍様は広い度量でたくさんの党資金と貴重な国家資源を出して、お前たちを救って下さった。よってお前たちは正直に自分の過ちを批判し、許しを請わなければならない」と看守たちは言っていました。私はばかげたことであると思いました。

 初めのうち看守たちは毎日一回、生死の確認のために出入りする程度でしたが、私が少し回復してきたことが分かると拷問を開始し、私が気絶するまで蹴ったり殴ったり、ありとあらゆる暴力を加えてきました。看守たちは「煙台事件の一味ではないか」「外国人と連絡を取っていたのではないか」「宗教関係者とつながりがあるのではないか」と尋問しました。しかし私は最後まで、「違う」「中国公安に聞いてみろ、私はあの人たちとは何の関係もない」と一貫して言い張りました。私は他の人たちに申し訳ないと思いましたが、生きるためにはやむを得ない状況でした。

 2003年4月末頃、拷問と栄養失調で生ける屍となり、肛門が開き、舌が伸びた状態となった私は安全部の病院へ移送されました。そこで治療を受け、少し動けるようになった同年5月20日、私はひとまず釈放されました。

 釈放されしばらく経ったある日、私を拷問していた保衛部の指導員が区域担当の保衛指導員と共に訪ねてきました。「お前はすごい悪質分子だ」と皮肉りながら、「もう釈放されたんだから本当のことを言ってもいいじゃないか」としつこく迫ってきました。「本当に煙台事件の脱北者たちとは何の関係もなかったのか、もう正直に話してもいいじゃないか」などと、にやにや笑いながら丸め込もうとしてきました。私は「本当に何の関係もない。中国で噂は聞いたけれど、何のことだかいまだにさっぱり解らない」と答えました。すると保衛指導員たちは殺気を帯びた嘲笑を浮かべ、「奴らは永遠に戻れないところへ送った。そうなりたくなかったらお前も気をつけるんだぞ」と脅かしながら帰って行きました。煙台事件で捕まって送還された人たちは皆、政治犯収容所に送られて最後には殺されるだろうという話なのです。私は改めて、留置場で看守たちが宣伝していたのは真っ赤な嘘であり、将軍様は救うためではなく殺すために中国にたくさんのお金と物資を納めて脱北者たちを連れ戻しているのだということを確信しました。恨み骨髄に達する思いです。私は死んでも北朝鮮から脱出しようと再び決意しました。

 さて、2002年5月に煙台から家出していた私の息子ですが、その後まもなく、脱北者であることが発覚し、北京で拘束されました。そして、その年のうちに北朝鮮に送還され、保衛部、安全部、そして労働鍛錬隊と移されていました。私が釈放された少し後、2003年6月10日頃に息子は労働鍛錬隊を釈放され、再び安全部に送られました。その日に安全部から呼び出された私は息子との再会を果たしました。別れたときには健康であった息子は体重が40キロに及ばないくらいに痩せこけ、誰かの肩を借りなければ歩けないほどの状態でした。再会の翌日、私は息子とともに安全員に護送され、追放区域である平安北道・塩州(ヨンジュ)郡・トボン里に追放されました。

2度目の脱北

 北朝鮮では2003年8月3日に選挙があり、その日まで私と息子には監視がついていました。選挙が終わった翌日、私はいくつかの問題を解決するために新義州に行きたいと申し出たところ、幸いにも許可を貰うことができました。しかし通行許可書が発行されなかったために検問所を避けて行かなければならず、遠回りをして3-4日かけて新義州にたどり着きました。私は「中国国境に近い田舎の町で中国と貿易する仕事が見つかった」とうそをついて、移動許可の書類を作成し、その他の必要な書類もうまく確保しました。

 追放先の地で私はいつも脱北のことだけを考えていました。息子が留置場で聞いた話によって、私たちは国境警備がそんなに厳しくない地方の見当をつけていました。いよいよ脱北です。誰かに尋ねられれば、計画通りに「北部鉄道建設突撃隊員の親戚に会いに行く」と答えながら、中国との国境に向かって進み、鉄道の堤防の下に隠れて国境警備員の隙をうかがいました。そして2003年11月末、息子とともについに凍った鴨緑江を渡って中国・長白県にたどり着き、再び脱北に成功しました。その後、中国にいた娘と連絡を取り、再び煙台で暮らすことができたのは同年12月20日頃でした。

日本へ

 2004年、私はあちこちの情報から脱北者を支援している韓国のキリスト教会に行き着き、さらに日本のNGOと連絡を取って支援を受け、日本に戻って来られる方法を見つけました。

 2005年3月16日、私と子供たちは日本の在外公館に保護され、同年7月28日、ついに私と息子が、そして11月末に娘が日本に入国を果しました。

まとめ

 私の母は,「北朝鮮へ行けば心配なく暮らせる」と誤信させられ、私を連れて帰国しました。当時夫である私の実父が死亡した直後であり、今後の生活と特に子供たちの将来に不安を覚えていたと、当時のことを折々に私に話ました。母がそんな悩みを持っていた当時、朝鮮総聯構成員は北朝鮮での薔薇色の生活を謳い、母を帰国へと駆り立てたのです。しかしそれは地獄へと導く悪魔の囁きに他なりませんでした。この時の朝鮮総聯構成員に再び会うことができれば必ず責任を取らせる、と母が語っていたのを私ははっきりと覚えています。

 帰国直後の兄の抑留と死、学校での帰国者であることからのいじめ、養父の抑留と凄惨な姿での帰還。それらがまだ幼かった私の心に深い傷を刻みました。当時の北朝鮮は子供が成長するにはあまりにも劣悪な環境であり、地上の楽園とは正反対であったと言わざるを得ません。

 体制に疑問を抱きながらも生きてきた私が脱北を試み、安住の地である日本に到達するまでには長い年月を要しました。日本政府に保護されるまでに私は、一度目の脱北の際に潜伏していた中国から北朝鮮に強制送還され、北朝鮮の国家保衛部に拘留され、そこで苛烈な拷問を受け、言葉に尽くせぬ肉体的、精神的抑圧、苦痛、損害を蒙りました。この時の拷問による健康被害と恐怖の体験は現在も私を苦しめ続けています。

 しかし、私がこのたび提訴したのは、私や私たち一家の被害だけを訴えるためではありません。北朝鮮では幹部に多少のコネのあった私たち家族は、それでもまだましであったとも言えます。そのようなコネもなく私たち以上に悲惨な境遇に置かれた帰国者を何十人も知っています。日本への望郷の思いを抱きながら憤死した日本人妻も。また、取るに足らぬことで汚名を着せられ政治犯収容所に送られた多くの帰国者たちも。そこでは動物以下の劣悪な扱いが待ち受けています。身内から収容所送りの者を出した家族は、次は一家もろとも収容所送りかとの恐怖に怯えながら暮らさねばなりません。いったい何千人、何万人の人々がこの恐怖政治の犠牲となって死んでいったのでしょうか。
 表では「地上の楽園」などという美辞麗句で私たち帰国者を騙して九万三千人という被害者を生み出しておきながら、裏では北朝鮮国家の指示通りに工作をする朝鮮総聯が、いまも平然とこの日本の地で活動していることに、私は身震いするほどの憤りを覚えるものです。

 私が提訴したのは、いまも北朝鮮にいる帰国者たちの苦しみ、そして死んでいった多くの犠牲者たちの無念を代弁するためです。北朝鮮政府が犯した歴史的な犯罪行為は罰せられなければなりません。犠牲者の霊を慰める意味でも、北朝鮮政府の行なった行為は正当に裁かれなければなりません。

 もはや歴史的な大罪であることが明らかになったこの「帰国事業」について、北朝鮮政府は罪を認めなければなりません。

  私には現在も北朝鮮に二人の姉と一人の弟、並びにその家族がいます。本件提訴を行う事で、北朝鮮に残る親族に対して北朝鮮当局が迫害を加えるのではないかと私は大変危惧しています。しかし、このまま座して待つとも北朝鮮の恐怖政治が変わらぬ以上、北朝鮮に残る親族が飢餓ないし迫害によって追い詰められるのは時間の問題である事から本件提訴を決意しました。