北朝鮮帰国事業裁判弁護団

北朝鮮帰国事業について、北朝鮮政府の責任を問う裁判の弁護団です。

裁判傍聴記その3 川崎栄子さん尋問編

2021年10月14日(木)10:00~16:30 東京地方裁判所103号法廷にて行われた第1回口頭弁論期日の内容について、連載でお届けしています。

いよいよ原告本人尋問です。まずは川崎栄子さんの尋問(60分)から始まりました。

原告本人尋問は実際には問答方式で行われていますが、この傍聴記では、一人称を「私」とした語り方式でまとめたいと思います。

北朝鮮に渡るまでの経緯

私は日本の京都で、5人兄弟の1番上の子供として産まれました。

小・中学校は日本の地元学校に通い、高校から朝鮮学校に通いました。朝鮮学校に通うことにしたのは、家庭の経済状況が悪く、当時は在日朝鮮人が日本の奨学金を受けることができなかったこともあって、日本の公立高校に行くことができなかったからです。そのような時に朝鮮総連の人が家に来て、「朝鮮学校には在日のための奨学金がある」「特待生の試験を無料で受けられる」と教えてくれました。日本の高校に行くお金を出してくれるという篤志家もいましたが、私は自分の実力で学校に行きたかったので、特待生の試験を受けて合格し、朝鮮学校に通うことにしました。

朝鮮学校は、日本の学校とは全く違いました。教室には金日成の肖像画がかかっていて、最初に教わったのが愛国歌と金日成の歌でした。先生たちは授業の度に、朝から晩まで、「北朝鮮は地上の楽園である」と宣伝していました。

家族の中で、北朝鮮に行きたいと最初に言い出したのは私です。

学校で毎日北朝鮮の宣伝を聞く中で、また、韓国の李承晩政権が倒れたら金日成が韓半島を統一し韓半島全体が社会主義体制になると考える中で、「社会主義体制について自分は何を知っているんだろう」「私自身が北朝鮮の社会主義体制を実際に体験しなければならない」と思うようになりました。

私の両親は韓半島南部出身でしたので北朝鮮に行くことについて、家族は当初乗り気ではありませんでした。しかし、私が「どうしても行く」と言ったので、父も最後には「わかった」といいました。

北朝鮮には、まず私がひとりで行くことになりました。両親は30年以上日本に住んでいましたので、移住するにも準備に時間がかかるということでしたが、私はそれを待ちたくないと思っていました。すると、父が「先にひとりで行け。1年で準備をして、1年後に皆であとから行く」と言い、そうすることになりました。

当時私は17歳の高校3年生でしたが、宣伝で北朝鮮は地上の楽園であるとすり込まれていたため、不安は全くありませんでした。

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裁判所で体験を証言する川崎栄子さん。(小野寺敬一氏提供)

北朝鮮での生活

北朝鮮には新潟から船に乗って行きましたが、船での別れは長くて辛いだろうと父が言ったので、家族とは京都駅で別れました。京都駅からは「帰国列車」に乗って新潟まで向かいました。帰国列車は、鹿児島から新潟までのものと、北海道から新潟までのものとがありました。

列車には学校の上級生が2人乗っていたので、そこからはその2人と一緒に行動しました。

帰国船が北朝鮮の清津の港に入ったとき、港自体が煤けて黒く、みすぼらしく見えました。黒く見えたのは製鉄所のばい煙によるものだと後でわかりました。
埠頭に歓迎に来ていた数千人の群衆は、花束を持って歌を歌ってくれましたが、皆栄養失調でやせ細り、日に焼けて真っ黒で、粗末な服を着ていました。服は、日本ならば作業服にもならないようなぺらぺらのもので、皆が同じ服を着ていました。靴下を履いている人はいませんでした。

帰国船が港についたとき、岸壁に私が列車の中から一緒だった2人の上級生の同級生で少し先に北朝鮮へ来ていた人がいて、その人は私たちに対して「そこに乗っている3人!誰も降りるな!そのまま日本に帰れ!」と叫んでいました。とはいえ、帰国船から降りないで日本に帰ることは不可能ですし、叫んでいた人もすぐに連れて行かれていなくなりました。

船を降りた後は招待所に行きました。私は船酔いで弁当を食べられなかったのですが、残した弁当を集めに来た人が「こんなものも食べられなくなるのに」と独り言のように言っていました。よく見るとその人は、先に北朝鮮に渡った知り合いでした。

招待所に入って1週間ほど経った頃、事件が起こりました。飾ってあった金日成の抗日戦争の時の絵を引きずり下ろし、足で踏んでめちゃくちゃにした帰国者がいたのです。その人は10代の若者でしたが、捕まってどこかに連れて行かれてしまいました。その後彼がどうなったか誰も知りません。彼が捕まった後に他の帰国者が一堂に集められ説明を受けましたが、それまではニコニコしていた招待所で働いていた現地の人たちが、皆非常に怖い顔をして怒っていたのです。これを見て私は、「北朝鮮では行動に注意しなければとんでもないことになる、何を見ても聞いても、何も言ってはダメだ」と思いました。

大人たちが「騙された」とまず言いました。私も北朝鮮で2~3ヵ月過ごす間に、「ここに家族が来たら全員死ぬ。どうしても止めなければ」と思いました。特に、私の父はダメなことはダメだと白黒はっきり言わないと気が済まない性格でしたので、北朝鮮で生き延びれるとは思えませんでした。

私は日本を出るときに、いろいろな人と「着いたら連絡する」と約束をしていましたが、実際には親にしか連絡をしませんでした、100パーセント検閲されているので、検閲にかからずに「来るな」というメッセージを家族に気付かせるため、「弟が大学を卒業して、結婚したら、お嫁さんも一緒に会いましょう」と繰り返し書きました。当時弟は小学校4年生でしたので、大学を卒業して結婚するというのは遠い先のことです。このように、遠い未来の話だけを繰り返し書くことで、来てはならないというメッセージを伝えました。

結局私の家族は北朝鮮に来ませんでしたが、私のメッセージを理解してくれていると分かったのは、3年ほど経って母の親友が北朝鮮に来たときのことです。その人が「北朝鮮に行く」と私の母に言ったところ、母から「娘から、娘が書きそうにない手紙が来ている。北朝鮮には来るなということだと思う。もう少し日本で頑張ろう」と言われたそうです。

その人は、母の忠告を聞かずに北朝鮮に来ましたが、「子供も連れてきてしまってとりかえしがつかないことをしてしまった。あなたのお母さんの忠告を聞けばよかった」と、大泣きしていました。

私の北朝鮮での居住場所は、韓半島の東側になりました。

私が北朝鮮に渡った1960年頃は、国内の移動は制限がありませんでした。汽車の切符を買うのは大変でしたが、切符さえ買えばどこにでもいけました。

しかし、金正日が政治に関わるようになり、1970年代中頃になって急に通行証の制度ができ、居住地の行政区域内でしか動けなくなりました。仕事以外の目的では通行証は発行されない建前でしたので、仕事以外の目的の場合は賄賂を入れて通行証を発行してもらう必要がありました。

私はその後結婚し、子供は5人いました。北朝鮮には頼れる親族もいなかったので、経済的には厳しい状態でした。

配給は15日に1度でしたが、それも次第に遅れたり量が少なかったりするようになり、とうもろこしのおかゆやじゃがいもを食べる生活でした。お腹を空かせた子供たちは、秋には公園で赤とんぼを捕ってかまどに並べ、乾かして食べていました。
子供たちがお腹を空かせているのを見るのは辛い気持ちでした。友人にも「なぜ日本の親に助けてもらわないの」と叱責されたこともあります。しかし、自分がどうしても来たいと言って北朝鮮に来た手前、日本の親に頼ることはどうしてもできませんでした。

大飢饉

1994年頃からの大飢饉の頃についてですが、金日成が死亡すると、金正日は配給を全て停止しました。餓死した人々の死体が転がり、子供たちが闇市をうろつくようになりました。

私はそこで初めて、日本の親に「まとまったお金がいる」と連絡をしました。親は25万円用意してくれ、そこに友人が10万円足してくれて、そのお金で食堂の経営をはじめました。

食堂で使う食材は闇市で調達しました。金正日は闇市を許していたので、闇市は膨らんでおり、お金さえあれば何でも買うことができました。

この頃、数百万人の餓死者が出たということですが、私も餓死者の死体を目にしたことは数えきれないほどたくさんあります。私の食堂に食べ物が欲しいと訪ねて来た人が、実際にはもう食べ物を食べる力もなく、翌朝食堂の前で死んでいたということもありました。

餓死する人は皆、金になりそうなものは全て売り尽くしているので、「これが本当に服だったのか」と思うようなものを身にまとい、垢と汚れにまみれていました。

脱北

1994年に金日成が死亡したときには、他の社会主義諸国が倒れていることも耳にしていましたので、北朝鮮もここからよくなるのではないかと期待をしていました。しかし、金正日は国民を顧みず、父親(金日成)の墓を作り始めたのです。
国民が飢えて死んでいるというのに、国会議事堂を墓にするということで、全国の若者を集めてものすごいスケールの工事を始めました。それを見て、「こんな国の中でいくらバタバタしていても無駄だ、外から変えなければこの国は変わらない」と感じ、脱北する決意を固めました。

脱北は誰にも相談せず、1人でしました。どんなに親しい人にも、子供たちにも話しませんでした。誰かに話してそこから話が漏れれば、命取りになるからです。

日本への帰国後

私は、生きて日本に着いて生活が安定したら、子供たちも順番に全て脱北させるつもりでした。実際には、娘1人とその子供2人だけが脱北をしました。

脱北は命がけですので、他の子供たちは、幼い孫たちの命を心配して脱北できなかったのだと思います。

北朝鮮に残った子供たちが私と連絡しようとするときは、中朝国境地帯で中国の携帯電話を使って連絡をしてきていました。平壌からも国際電話をかけることはできるのですが、間違いなく盗聴されている上に他の人もいる前で話をしないといけませんので、秘密の話をすることはできません。

子供たちはそれぞれ年1回くらい連絡をして来ましたが、連絡の内容は、経済的に助けて欲しいというものが主でした。

私は日本から子供たちに年3~4回くらい船便で荷物を送っていました。1箱に12~13キロくらいのものを詰めて、何箱も送っていました。

私が脱北したことは、家族以外の人にも知られていたようです。孫の1人は、日本で育っていたら博士号をとったのではないかと思うくらい優秀な子でしたが、この孫が軍に入ったとき、孫の上官らが私の脱北を知っていて、孫には軍の仕事をさせずに家に帰らせて、金や物を貢ぐように指示していたそうです。しかし、孫はそのことを一度も私に知らせてきませんでした。当然上官らは何も得ることはできませんでしたので、怒った上官の1人が、孫を建物から突き落として殺してしまいました。

新型コロナウイルスが流行してからは、北朝鮮が国境を封鎖したためか、北朝鮮の家族とは一切連絡が取れなくなりました。一昨年(2019年)の11月に一番下の娘から電話があったのが最後です。今は子供たちの様子を何も知ることが出来ず、生死もわかりません。2020年7月には、郵便局から「送った荷物が北朝鮮に届けられなかった」と連絡があり、7箱戻ってきてしまいました。唖然としてしまい、涙も出ませんでした。
子供たちについては、「心配」というレベルを超えています。私は不眠症で、暗くなると北朝鮮のことがフラッシュバックしてきて絶対に眠れないのです。明け方空が明るくなるとようやくウトウトできるという状態です。

裁判所に対して

この難しい裁判を開いてくれてありがとうございます。私自身が生きてこの裁判を実現できるかどうかもわかりませんでしたので、心より感謝しています。

個人であっても国家であっても、罪を犯したものは法で裁かれなければなりません。ですから私はずっと「裁判」をしたいと訴えてきましたが、公示送達がされるまで、実現するとは信じられませんでした。

この裁判には2つの目的があります。

私たちのように北朝鮮に渡った人は94,430人います。そのうち1,800人は日本人妻で、6,800人は日本国籍を持っている人でした。

そのうちの大多数は既に亡くなっています。精神障害になったり、仕事に不適合だったり、何もしていないのに収容所に送られたり、寿命で亡くなったりしています。しかし、その配偶者や2世、3世が、今も数十万人北朝鮮に閉じ込められています。
私のように命をかけた危険なやり方でなく、正々堂々と日本に往来できるようにしたいというのが1つめの目的です。

2つめの目的は、今も北朝鮮にいる私の4人の子供と配偶者、5人の孫と生きて再会したいということです。

これらの目的を実現するため。北朝鮮の行為を、この日本という自由な国家で正義の天秤にかけて欲しいと思っています。


以上が川崎さんに対する尋問の概要になります。

なお、裁判所による補充質問はありませんでした。

クラウドファンディングのお願い 

裁判所で弁論期日が行われることを受けて、10月14日から12月10日午後11時まで、READYFORで北朝鮮帰国事業裁判のためのクラウドファンディングが行われています。

裁判で勝訴をつかみ、それをバネに北朝鮮に残る帰国事業の被害者及び子孫の救済を日本政府・国際社会に訴えていくには、多くの費用がかかります。

ぜひ一人でも多くの皆さまに、クラウドファンディングにご支援をいただきたく、よろしくお願い申し上げます。

皆様からのご支援は、北朝鮮帰国事業訴訟費用、帰国事業の実態の周知、北朝鮮に残る被害者及び子孫の救済に向けたアドボカシー・広報活動等に当てられます(READYFOR特設ページより一部引用)。

readyfor.jp